1. ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)の至言
演劇的なものをことごとく拒否して、手と視線とオブジェからなる映画を作りたいと思っています。
1959年『スリ』公開に際しジャン・ドゥーシェのインタビューに答えて
〜
大切なのは、出演者たちが私に見せるものではなく、彼らが私に隠しているものです。出し抜けにとられた視線は崇高なものとなりうるのです。
俳優は己を前方へと投げ出します。内部から外部へと向かう運動です。しかし映画はその反対です。何も外に抜け出さないように、すべてを内部にとどめ置かねばなりません。
「シネマスコープやシネラマについてはいかがお考えですか?」
『スリ』公開に際し、「レクスプレス」のインタビュー(1959/12/23)より
それらは物事を孤立させる妨げとなります。演劇や他の見世物に固有の手段に頼ることを余儀なくさせるのです。人物を入場させたり、退場させたり、集合させたりといった風に。それに果てしなく続く台詞です。そうしたものはシネマトグラフの妨げになるのです。
〜
もしシネマトグラフがシネマスコープやシネラマのサイズで誕生していたとしたら、スタンダードのスクリーンは大いなる発見であったことでしょう。映画のリズムはエリクチュールのリズム、心臓の鼓動のリズムでなければなりません。
そもそも「抽象」という語は何を意味するのでしょうか?私が思うに、抽象とは、ある物事の部分を全体から切り離して、それを別個に検討するということです。この定式に私は完全に賛同します。ただし映画がシネマスコープやシネラマでもないという条件のもとでなら。
『スリ』公開に際し、「ル・マスク・エ・ラ・プリュム」のインタビュー(1960/1/9)より
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もし私のことを抽象化しているとか抽象的だとか言って非難する人がいるとしたら、私からすれば、それは非難でも何でもありません。それこそまさに映画がすべきことなのですから。
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2. ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)という傑物
ゴダール、アンゲロプロス、タル・ヴェーラの至言を紹介した。
ついにロベール・ブレッソン(Robert Bresson)。
最高峰の山へ挑戦の気分だ。
ゴダールをして
ドフトエフスキーがロシアの小説に、モーツァルトがドイツの音楽に対して占める位置を、ブレッソンはフランス映画に対して占めている
ジャン=リュック・ゴダール
と言わしめる監督。
元は画家、写真家。
1959年、5作目となる監督作品『スリ(Pickpocket)』でフランスの第一回『新しい批評賞』最優秀フランス映画賞受賞。
1962年、『ジャンヌ・ダルク裁判(Procès de Jeanne d’Arc)』がカンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。
1974年、『湖のランスロ(Lancelot du Lac)』がカンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞。
1983年、『ラルジャン(L’Argent)』がカンヌ国際映画祭国際監督賞受賞。
極力台詞を切り詰め、
説明を廃し、
音楽をつけることも極端に少なく、
プロの役者起用を嫌った。
当然、そうするには強烈な信念と思想信条からの映画製作だった。
その映画の撮り方は後の多くの監督に影響を及ぼした。
3. 至言を味わう
ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)はプロの役者を起用することが少なかった。
役者が、自分の”内側”を”外へ”出そうとしてしまう生業を嫌うことを明言している。
ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)が撮ろうとする映画はその逆なのだ、と。
だからロベール・ブレッソン(Robert Bresson)には役者の業が邪魔になる。
従って、何も背負っていない素人を起用することになる。
アッバス・キアロスタミの諸作やクリント・イーストウッドが昨年『15時17分、パリ行き』』で素人を起用したが、その先頭にロベール・ブレッソン(Robert Bresson)がいたのだ。
極力台詞を切り詰め、
説明を廃し、
音楽をつけることも極端に少なく、
プロの役者起用を嫌った。
それら自身の作法を、
ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)自身シネマトグラフと呼んだ。
極めて意識的な映画創造の姿勢だ。
そこには偶然が入り込む余地などない。

映画の画面サイズ変遷の歴史は、
スタンダード*元々のサイズ横:縦比=1.331 : 1が1932年に → (1.375 : 1 )
ビスタ*横:縦ヨーロピアン・ビスタ(1.66 : 1 ) →アメリカンビスタ(1.85 :1 )
シネマスコープ*横:縦比=2.351 : 1〜2.66 : 1
とやたらと横広になっていった。
現在ではほとんどの映画がビスタサイズで撮影されている。
(アナログ放送時代のテレビ番組は4:3とスタンダードサイズに近く、現在の16:9で統一されたデジタルの画面で昔の番組が映される時、左右縦に空白が出来るのをご覧になってことがあるだろう。
同様に、スタンダード・サイズで撮影された映画のDVDを現在のテレビ画面で見る時にも左右縦に空白が出来る。
DVDには画面サイズが表記されているが、それを確認しなくてもテレビで再生すれば一目瞭然)
歴史的にはスタンダードからビスタそしてシネマスコープと広がり、ビスタに落ち着いているが、ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)の発言は最初にもしシネマスコープという最大幅の映画から始まっていたら逆にスタンダード・サイズこそが”発明”と言っているのだ。
実際、ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)はスタンダード・サイズで多くの映画を撮った。
特にシネマスコープほど広がってしまえば、雄大な絵が撮られ圧倒されるのは確かだが、次に述べている「抽象化」とも絡む問題で、人間の視線よりも広い光景を連続して動かしたところで、焦点がぼけてしまうだけだ。
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「抽象化」についての発言は、ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)の映画を「分かりにくい」とか「何も起こらない」と分かりやすい起承転結(しかも、ハッピーエンド!)を必ず求める現在の映画、小説、音楽への安易な見方への強烈な解答そのものだ。
売れる為に、あまりにも同じテーマを「具体的な」「ハッピーエンド」が配役を見ただけで分かってしまう起承転結で再生産される現在、「抽象化」の力がおそろしく低下している。
それが、監督、作家が「売れる為」の戦略として行なっているのなら、そういう人間だと判断すれば済むことなのだ。
しかし、最初から「抽象化」する能力がない人間が作家を名乗って「先生化」しているのだとしたら、世も末である。
藝術行為、創造行為とは「抽象化」行為そのものである。と断言しても間違いではなかろうと思う。
ならば、「抽象化」することが出来ない制作者の仕事は複製、コピー、模倣、剽窃でしかない。
4. それから
機会があれば、というか映画が好きと思うのなら、
一度はロベール・ブレッソン(Robert Bresson)の映画を観るべきだと思う。
こういう言い方は本来ならあまりしたくはないのだが・・・
慣れていない人には
「ぶっきらぼう」
「よく分からない」
「楽しくない」
という感想を持たれるだろう。
ちょっと待って考えてみよう。
「何故、この監督はこういう撮り方をするのか?」と。
基本的にはDVD、ブルーレイ・ディスクなどで観るしかないが、
たまに特集上映される機会に是非、スクリーンで観て欲しい。
未だディスク化されていない1969年の『やさしい女(Une femme douce)』が、数年前にリバイバル上映された。
新宿のスクリーンに最初のカットが映し出された瞬間から終わりまで、ずっと動悸が止まらず、震えっぱなし。
今から50年前に制作され真空パックされていたのかというほどの奇跡がスクリーン上にあった。
映し出される映像を一コマも見逃したくない、まばたきをしたくない、自分が呼吸するのを忘れてしまうのではないかというほどの映画を目撃した。
観終わった後も、いま思い返してもその実感が変わらない。
あまりに大袈裟な表現で気恥ずかしいが、こんな手放しの礼賛しか言いようがない衝撃だった。
内容、主題ではないのだ。
最初のカットから、いきなり何も考えられない場所に連れていかれてしまったのだ。それが途絶えることなく最後まで連続していたのだった。
フィルムに焼き付けられた一コマ一コマが奇跡のような時間を創出した。
これはもう、目撃、体験してもらうしかない。
映画の視線とは何だ?
映画の時間とは何だ?
人間の何を映し出そうとしているのか?
この世の何を切り取り、映画の中に取り込んでいるのか?
この世のどの音を廃し、どの音を取り込んでいるのか?
映画の中の人間に何を話させ、何を話させないのか?
ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)が暴こうとしたもの、排除したものに向き合うことを繰り返す贅沢。
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ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)の映画の時間にどっぷり浸かる時、
難解なようでいて、答えは問う者の中にしかないと気付かされながら、
触れなば血飛沫をあげんと切っ尖鋭い刄のようなショットの連続は残酷そのものであり、身も蓋もない。
救いの手などまったく差し伸べようとしない映像。
何故こんなにも豊穣で至福な体験となるのか、
種が判ったつもりの魔術に自ら何度もかかりにいくかの如きだ。
映画鑑賞?とんでもない。
それは体験というものではないか。
ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)
1901/9/25-1999/12/18(享年98歳)
映画監督、脚本家
(波尾哲)