日本の近代は明治維新以来のナショナリズムの動員に由来します。しかし戦後は、戦勝国アメリカが標榜する自由と民主主義に基づく価値観に全面更新されました。
戦後の日本人を精神分析すると、「攻撃者との同一視」がうかがえます。疑似的に勝者の立場に身を置くことにより、敗者となった事実を否定する心理です。冷静にみると、戦後日本はアメリカの属国として服従しているのは明らかですが、それを認めるのは屈辱なので「日米パートナーシップ」などと対等性を装っているのが実情です。
安倍晋三首相が掲げる「戦後レジームからの脱却」は、矛盾を巧妙にごまかすものです。ただ、これが国民の安寧を保つ作用も否めません。事実の否定は国家の弱体につながります。
AERA(2017年8月14-21日号)より
中学生の頃、どこからかフロイトという名前を聞く。それは『夢判断』とセットになってインプットされた。歴史的事件の年号をインプットするみたいに。
歴史的事件の年号をインプットしても、事件そのものをよく知らぬままな様に、フロイトについても固有名詞だけがインプットされたままだった。その後、ユングもインプットされる。固有名詞だけが。
明らかに不勉強で偏見な中学生は、心理学というものにどこか否定的な気持ちがあった。
・人間の心理が解ったらそんな楽なものはない、
・人間をすべて「心理学的に」観察、分析しようとしてしまうんじゃないか?
・人間をすべて「心理学的に」決めつけるだけじゃないのか?
・人間をパターンに当てはめ分類しようとしてんじゃね?
なんとなく、嫌な人間になりそうな気がした。
中学生の浅はかな偏見。
それなのに、高校になって、一応、『夢判断』を買って読んだ記憶がある。ほんの数ページで閉じた。
やっぱ、馴染めなかった。
その後何年後か、毎週聴いていたラジオ番組に岸田秀という人がゲストで出演した。多分、村上龍の番組だった気がする。不確かな記憶だけれど。
毎週聴いていたから、否定的に思っていたからといって心理学者がゲストだからといってスイッチオフ、なんてことはしなかった。
岸田秀と村上龍(多分)の話はもの凄く魅力的だった。内容はさっぱり覚えていない。
ただ、『モノンクル』という雑誌のことを話していた。
そして翌日、迷わずに『モノンクル』を買った。それからも発刊される毎に買って読んだ。岸田秀という人の説く「ものぐさ精神分析」という考えに惹かれた。中身も面白かった。書籍も何冊か買い求め読んだ。
『モノンクル』は伊丹十三編集長という雑誌だった。改めて調べたら1981年発刊となっている。そんなにも経ったのか。
岸田秀は誘われなかったら本を出そうなどと思ったこともない、という「ものぐさ」さぶりで出した「ものぐさ精神分析」が売れた。
帯を書いたのは澁澤龍彦→「傑物の至言-17」
その後も著作は多く、多方面でご活躍されているが学者としてどこの学会にも属してないという。その孤高な生き方は、強靭な「ものぐさ」な姿勢だからこそ生まれたのだろう(と精神分析学者を分析しても敵う筈がないけれども)。
後にフロイトは精神分析を創設した医学者で、精神分析とは心理学の一分野だと知る。
このブログは私自身が直接、傑物と感じてきた人達を書く為に、改めて読み直し観直し聴き直し、調べたりするだけではなく、自分が10代だった頃からの様々なことを期せずして思い出し向き合うとになった。
ざっと思いつくままの名前だけならもう100人以上の傑物が待機している。日々、思い出して増える。取り上げる順番に何の決まりも法則もない。自分がリストアップした名前を見ながら、ふっと、今回はこの人と思ったら紹介している。それはその傑物が私の心を震わせてくれたそのこと自体を書きたい、という思いのままの順番になっているだけだ。
ダンボールの中の書物と雑誌同様、久しく岸田秀のことを想起することはなかった。
AERAでご尊顔を拝見し、あ、まだご存命だったのですね、発言も元気だ!と少し驚き、とても嬉しかった。『モノンクル』を読んでいた時期にインターネットなんて無かった。その風貌から学者然として結構お年を召された方と思っていた。
冒頭の言葉、
『事実の否定は国家の弱体』
の「国家」を「人間」と置き換えても意味が通るだろう。
何かを装い、事実を否定する。それは自分自身にしか分からないことであり、自分ではずっとそうしてきたことを識っている。分かっている。
仮面や嘘は時として必要であり、特に他人と仕事をする時に全員が自分をさらけ出し合ったらとても前に進まない。
下劣な上司でも会社がそのポストに置いているのだから言うことを聞いてあげるくらいの妥協は皆が経験していることだろう。
大事なのは自分の時間、歩みを誤魔化してはいないだろうか、という問い。
そりゃあ誰もが子供の頃に夢見たような人生を獲得する才能に恵まれなかったという想いを抱きながら、はてさて自分は何者だ?どこに行くべきなのか?
そう問い続け、考え続けることすら停止してしまい、日常の忙しさ(本当はそんなに非常事態的に忙しい時なんてそうそう長くあるわけもない)に「そこそこ満足している」風を装って生きてきてしまってはいないだろうか?
これは読んでくださっている方々に岸田秀の言葉を借りて偉そうにしているわけではないのです。
心が締め付けられながら書いているのです。
前回の倉本聰の言葉も、いや紹介したほとんどの傑物が言うことの根本は非常に素朴でいながらにして、厳しいものです。
(記*波尾哲)