ー『愛の世紀』の際に、「撮影にはうんざりする」と言っていたのを、 どこかで読みました。今では、長編の中から撮影の過程が取り除かれた ことがわかります。アーカイブの映像だけで成り立っています。 どのようにお考えですか。 「それが、撮影というものです。過去があり、そして、私たちに未来を語るのはアーカイブです。そして、映画は、過ぎ去ったことを見せるために、もしくは何かを招き入れるために、多くのことを成してきました。本当に重要なことは、一般的に撮影と呼ばれているものではなくてモンタージュであるという直感を、私は非常に早くから持っていました。 映画のモンタージュは、デジタルであれ手作業であれ、人間に固有のことだからです。私は手とともに考えます。
傑物の至言-22 Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)-1 – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
傑物の至言-23 Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール) −2 – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
から続ける。
★montageモンタージュ=編集すること
ここ何作かでの作法が過去の膨大な映画アーカイブから映画の断片を編集し再構築する、新撮を(殆ど)しないものであるから、
「撮影をしないのは何故か」「役者は不要か?」とこれまた何人かの記者から問われる。しつこく。
ー今日では演技の存在を信じていないのですか、それとも信じているのですか。 これが私の質問です。 「その質問にはお答えできません。私の映画で何度も演じ助けてくれた多くの俳優や女優の気分を害すことはできないからです。今日の映画における俳優に関しては…よくわかりません。 演技の問題とは、フィクションとドキュメンタリーの問題だと思います。私たちにとって、フィクションとドキュメンタリーの間に境界はありません。しかし、俳優にとっては別のことです。俳優たちは政治の中にいるようです。しかし、統治するような政治という意味ではなく、そのような政治性を除いた政治ということです。 今日の俳優たちは、考えられたものとしてのイメージに対抗する、撮影されたものとしてのイメージの全体主義に貢献しているようです」
2018/5/12「週刊読書人ウエブ」翻訳:久保宏樹氏
もうこれから撮る「べき」新しい演技はなく、必要な演技はすべて過去のアーカイブに存在している。それをモンタージュにより再構築することこそが未来が見える、と言い切ってしまう。
役者への気遣いをしながらも「全体主義という政治の中にいる」としている。
Godardのこういう『映画そのもの』の言及を読むと、
西洋音楽を支配した調性が五百年近く作曲、演奏された時点で、無調の音楽が試みられ、一般的なリスナーには「こんなの音楽じゃない」「不快だ」と耳を塞いだことを連想する。
馴染みの「旋律=メロディ」「安定したリズム」「バランス=全体の調和」というものが大前提になっていた「音楽」が調性を失うことで
「不安定」「旋律が聞き取れない」「不安」を招き否定された。
今でも「現代音楽」とジャンル仕分けされたその種の試みは「古典的=クラシック」音楽以上の支持を得ているとは言い難い。
「起承転結がわからない」「物語がない(と感じる)」「理解できる台詞の交換がない」Godardの非連続的でリニアな物語構成を拒否した(ように見られる)『映画』はごく一般の映画「ファン」には「理解不能」「不快」と目を塞がれるだろう。
そうした一般の映画「ファン」とGodardの間にいるべき真のジャーナリストが不在なのだから、Godardの「試み」が普遍的に理解される機会が増えるとは考え難い。
それでもいいのなら、それでも構わない。
95%以上の映画が、観てしまった時間を返して欲しいという惨憺たる現状を放置することに与するのが映画界というのなら。
それでもまだ毎年、ほんの何本かでも「創られたこと」「観られたこと」に感謝する映画が存在し続ける以上は。
Godardがまだこれからも「新作」を創る気持ちが伺えたことが何よりだ。
ほとんど奇跡の様な人なのだから、この人くらい不死のまま、我々がもう一回生まれ変わった頃にも生きていて映画を創り続けていて欲しい。本気でそう願う。
Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)
1930/12/3- 現在88歳
映画監督、脚本家、俳優、プロデューサー
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『けだし名言』
ただの名言、格言、金言じゃなく、本質に迫る言葉が『至言』。
ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。
その『傑物』の『至言』が放たれた奥底に迫りたい。