映画とは「X+3=1」である。学校教育を始めたばかりの子供からウンチのにおいがするようにして、容易に理解できるはずです。もしX+3=1ならば、この「=」は「-マイナス2」です。過去、現在、未来のいかなるイメージであれ、真の音や真のイメージが存在し始める第三のものを見い出すためには、消去することが必要です。X+3=1は、映画の鍵です。そこに鍵が存在するのであれば、錠の存在も忘れてはいけません。 対となるべき映像と言葉は大きく姿を変えていきました。言語としてのテキストは上手く機能できないのだと思います。互いに接近することはできるかもしれません。しかし言葉に関していうのであれば、声は言葉ではありません。そして、言葉は言語ではありません。言語は、それ自体で一つの動物です。。 目的は、映像と音を分離させることです。音を、台詞やコメントにのような、映像の単なる付随物とさせないことが目的でした。2018/5/12「週刊読書人ウエブ」翻訳:久保宏樹氏
傑物の至言-22 Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)-1 – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
に続ける。
この会見は2018年カンヌ国際映画祭にてGodardの新作『Le Livre D’image(イメージの本)』が上映された後、パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレにて会見場からスイスの自宅にいるGodardにスマートフォンのビデオ通話越しで行われた。
各国の記者が交代で発する問いの中、複数の記者から「この映画祭をボイコットしたから50年後の今日、どんなお気持ちですか」と、まるで毎日ワイドショーや報道番組で繰り返される不見識、不勉強な記者の言葉に酷似したものがあったのには改めて驚く。
記者失格の彼らには、あたかもそのボイコットからの50年間が消去されているのだろうか?
その間Godardが撮った映画、発言などを問おうともせずに。
その問いが「奇跡」とも言えるGodardから直接会話が出来る刹那に、最も聞かなければいけない問いだとでも言うのか?
それが「民衆の代理」として「知る権利」だとでも言い張るつもりなのか?
そもそもボイコットの真意を理解しているとも到底思えない。
1968年、カンヌ国際映画祭の9日目にCarlos Saura(カルロス・サウラ)の作品上映を阻止したのがGodard、そして Francois Truffaut(フランソワ・トリュフォー)だった。それを支持した表明としてLouis Malle(ルイ・マル)、Roman Polanski(ロマン・ポランスキー)等が審査員を辞退する騒動に発展。
翌日、カンヌ国際映画祭の中止という前代未聞の事態に。
その後Godard達は監督協会(SRF)を立ち上げ監督週間を開始した。
カンヌに出品したくても選ばれなかったのなら、監督週間に来てください。ホテルの部屋を予約し、あなたの作品を上映します。審査員も賞もない。あるのは映画ファンだけです
といった趣旨の設立だった。
冒頭に引用したように『映画』そのものについて重要な話をしている頭脳に対して、なんという暴挙を問い続ける記者たち。
映画を撮る監督はたくさんいるが、「映画について考える」監督は少ない。
Godardの映画は「映画を見る興奮」と同時に「映画について考える」ことを与えてくれるというのに。
映画について考えることは、観ること、視ること、看ることを考えること。
いや、見えないことも含め総てを考えることなのだが、記者たちの近視眼、恥知らずにはまったく恐れいる。
と、読んでいるこちらが憤る問いにも、Godardには柳に風。余裕綽々で交わしてみせる。
理解されないこと、に長年慣れているのか、期待していないのか。
『映画の言葉が機能しない』と言いながら、「君たちの言葉も機能していない」と言っているかの様だ。
Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)
1930/12/3- 現在88歳
映画監督、脚本家、俳優、プロデューサー
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『けだし名言』
ただの名言、格言、金言じゃなく、本質に迫る言葉が『至言』。
ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。
その『傑物』の『至言』が放たれた奥底に迫りたい。