私の年齢になると、出来事のなかで興味深く感じるのは、成されたことだけではなく、成されなかった事でもあるのです。この二つを持ってして、その二つを読み取る必要があります。 〜 〜残念ながら、世界には、僅かな知性と多くの哀れみがあるだけです。
2018/5/12「週刊読書人ウエブ」翻訳:久保宏樹
傑物の至言-13 Sam Peckinpah(サム・ペキンパー) – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
傑物の至言-14 Tarr Béla(タル・ベーラ) – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
傑物の至言-6 Theo Angelopoulos(テオ・アンゲロプロス) – 波尾の選択 傑物たちよ—至言から探る
と、これまでももの凄い傑物、怪物級の映画監督のことを紹介した。
それにしても、Godardだけは別次元。別格。これは如何ともしがたい。
頭脳の中の、誰もが使えない領域を使って、ものを捉え、感じ、考える天賦の才能が附与された人なのだろう。
例えばアフリカ大陸の人は視力が5.0くらいあるといわれるが、同様にGodardの脳は、2.0が最高とされる都会人には視えない領域まで見通せるのだろう。それは形が視界で捉えられるだけじゃないのだと思う。予見、感覚が別の成分で出来ているかの様に。
1998年『Histoire(s) du cinéma(ゴダールの映画史)』からの
2001年『 Éloge de l’amour (愛の世紀)』
2004年『 Notre musique(アワー・ミュージック)』
2010年『 Film Socialisme(ゴダール・ソシアリスム)』
2014年『 Adieu au Langage(さらば、愛の言葉よ)』
へ、Godardの脳の中の横溢するイメージが巻絵のように、洪水の如く観る者へ襲いかかってくる。
それらをただ浴びること、それだけで至福の時間に居住できる。
私は1998年『Histoire(s) du cinéma(ゴダールの映画史)』からの
Godardの映画を極上の映画の究極として何度も浴びるように観る。
もうさすがに新作はないかと諦めていた
2018年『The image book/Le Livre D’image(イメージの本)』が届いた。
カンヌ国際映画祭スペシャル・パルムドール受賞
だそうだ。新設された賞だという。
1959年『À bout de souffle(勝手にしやがれ)』
ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作
1965年『Pierrot Le Fou(気狂いピエロ)』
1965年『Alphaville, une étrange aventure de Lemmy Caution(アルファヴィル)』
ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作
がヌーヴェルヴァーグにとって、どうのこうの、その後の映画撮影に如何に影響したか、とか
1967年8月 商業映画との「決別宣言」とか
1979年『『勝手に逃げろ/人生』』で商業映画復帰、とか
1985年『Détective(ゴダールの探偵)』が如何に素晴らしい、
とかの言及、解説は映画本や映画サイトの「映画史」にいくらでも普及している。
問題は、別格の映画脳が放射するエネルギーが健在であるということ。
それがただ一人88歳の人間の頭脳からしか生まれてこない、
映画界などというものがあるのならそこに何ら影響が及ばない、
孤絶したものだということ。
スペシャル・パルムドール賞だかなんだか知らないが、
歴史博物館に展示して「レジェンド」として祀ってしまおうという魂胆、そういう程度のIQしか持たない御仁たちの映画界。
傑物の至言-13 Sam Peckinpah(サム・ペキンパー)の中で、
「『傑作』とは魂の奥底まで届く映像のカットやシーンが撮影された映画のことだ。バランスが悪かろうが、まとまりに欠けようがそんなことはどうでもいいことだ。
映画は映像芸術だ。映像で何を撮られたのか、それだけが問われるべき」と書いた。
さて一体Jean-Luc Godardの映画をどう呼称すればいいのだろうか。「傑作」などという生温い言葉では捉えられない。
(Sam Peckinpah、Tarr Béla、Theo Angelopoulosの傑作を貶める意図があろうはずもないが、Godardの映画は一映画を超えてしまっており同一線上の言葉を冠することが不可能)
いまはまだその呼称が思い当たらない。
Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)
1930/12/3- 現在88歳
映画監督、脚本家、俳優、プロデューサー
————————————
『けだし名言』
ただの名言、格言、金言じゃなく、本質に迫る言葉が『至言』。
ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。
その『傑物』の『至言』が放たれた奥底に迫りたい。