映画は仕事ではありません。少なくとも私がこうあるべきだと思っている映画、こうあり得ると思っている映画は、仕事、職業ではなく、“使命”なのです。
世界を良くしていきたい思う宣教師たちは今何人いるでしょうか? TVや商業的な映画が語る言語とは違う言語を語りたいと思っている人々は何人いるでしょうか? 彼等はおそらく少数派でしょう。しかし、様々な時代において、少数派が小さな変化、大きな変化をもたらしたことがあります。
「マスター・クラス、アンゲロプロス」リポート~『エレニの旅』テオ・アンゲロプロス その1】 取材・構成 渡辺進也
https://www.nobodymag.com/interview/theo/theo1.html より引用
1975年、『旅芸人の記録』で世界中に衝撃が走る。230分の時間の中で1939年から1952年までの政編に動かされるギリシャの民をほぼワンシーン・ワンカットで構成し、カンヌ国際映画祭国際批評家大賞受賞
制作当時のギリシャは軍事独裁政権時代であり、政治批判を含む映画を撮るなんてことは生命に関わる危険な行為であった。
大学の同級生の多くが官僚になっており「ギリシャ神話」を撮ると撮影許可を得、役人が見守る中では古くからの説話のシーンを撮り、役人が帰った後に政治的なシーンを撮り足していき完成させたという。
根性の座り方がそもそも違う。
ちょうどその頃、軍事独裁政権が崩壊し選挙を経て共和制への移行という僥倖により映画公開が可能になった。
冒頭と同じ時、「ワンシーンワンカットの長回しが多い」理由を聞かれ、
私は常に“モンタージュの映画”、すなわち編集でつないだ映画に対して反発をしてきました。それがなぜだかはわかりませんが、息の長い文章を書く必要があったのです。同時にシーンでもあるようなショットを作る必要を感じていて、ショットはシーンの一部ではない、そういう考え方をしてきました。
~
私が好きな映画作家たち、オーソン・ウェルズにしても溝口(健二)にしても(ミケランジェロ・)アントニオーニにしても(カール・T・)ドライヤーにしても(F・W・)ムルナウにしても、ワンシーン・ワンショットの映画作家たちです
と答えている。
当然、ワンシーン・ワンカットで撮ればそれだけで素晴らしい映画になるわけではない。
アンゲロプロスが挙げた錚々たる監督達の名前よ!
同じワンシーン・ワンカットの使い手でも映像の中のテンポ、湿り感、色合い、光の具合にくっきりとそれぞれの個性が違うというところが素晴らしい。それぞれの監督自身が「自分の映画」を撮る際に必要な技法としてワンシーン・ワンカットを選択したということだ。
名前を聞くだけで映像が立ち昇ってくる。
1980年、『アレキサンダー大王』でベネチア国際映画祭金獅子賞
1988年、『霧の中の風景』でベネチア国際映画祭銀獅子賞
1995年、『ユリシーズの瞳』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞
1998年、『永遠と一日』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞

こんな恐れ多い格調を保ち続けた監督にもハリウッドが映画を撮らないかと誘いをかけてきたという。
当然のことながらその申し出を受けることはなかった。
莫大な制作費が保証されてもAngelopoulosが撮りたい映画を撮りたいように撮り、自分が納得いく編集権と望む形での上映がが担保されないとわかっていたのだろう。
昨日取り上げたBrian Enoが経済、政治に言及し、ギリシャの映画監督Angelopoulosも商業主義を語る。語らざるを得ないからだ。
映画監督
1935/4/27-2012/1/24 (享年76歳)
この人の映画を一生見続けていくだろう。残念ながら新作が作られることはもうない。
三部作の構想で制作されていたまさに三作目の撮影中、死去。
作られた17本を見返しながら、自分なりの”使命”を果たしていくしない。
★こんなに有難い至言に遭遇させて頂きながらも、敬称略で書かせて頂くことをご本人、関係者にお詫び致します。
『けだし名言』
ただの名言、格言、金言じゃなく、本質に迫る言葉が『至言』。
ただの有名人、著名人じゃなく、怪物級、規格外の人物が『傑物』。
その『傑物』の『至言』が放たれた奥底に迫りたい。