傑物の至言-50 Tarr Béla(タル・ベーラ)-2

7時間18分の映画『サタンタンゴ』では、3シーンだけが事前に完全に決めたセリフを使っています。

1. Tarr Béla(タル・ベーラ)の至言

私はいつも役者の個性を重視します。長回しのショットを撮る時、役者に対して、多くは言いません。そのシーンの状況を説明するだけで、撮影します。そうすると、彼らは指示を与えられていないので、彼ら自身から出てくるもの、深いものを表現します。

Cinema Scope,Film Comment掲載のインタビューから抜粋

他の映画監督が役者に対して、あれこれと細かい指示を出しているのを見ると、信じられません。
私は、キャスティングした段階で、その役者を信じています。

Cinema Scope,Film Comment掲載のインタビューから抜粋

『サタンタンゴ』では、3シーンだけが事前に完全に決めたセリフを使っています。

それ以外のシーンでは、セリフは常に変更可能な状態にしています。

Cinema Scope,Film Comment掲載のインタビューから抜粋

2. Tarr Béla(タル・ベーラ)という傑物

傑物の至言-14 Tarr Béla(タル・ベーラ)

でも書いたが、監督引退発言もしてしまったし、この作品は7時間18分=438分もあることから生きているうちに観られることなどないものと諦めていたら、9月に上映という告知があり、なんと4Kデジタル・レストア版!で蘇った。
映画『サタンタンゴ』公式サイト

1994年、『サタンタンゴ』ベルリン国際映画祭フォーラム部門カリガリ賞受賞、「ヴィレッジ・ボイス紙が選ぶ90年代映画ベストテン」に選出
2000年、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』がベルリン国際映画祭Reader Jury of the “Berliner Zeitung”賞受賞、
2007年、『倫敦から来た男』がカンヌ国際映画祭コンペティション部門プレミア上映
2011年、『ニーチェの馬』ベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)国際批評家連盟賞受賞したが、タル・ベーラ自身“最後の映画”と明言した。


2012年サラエボに映画学校film.factoryを創設。
2016年に閉鎖した後も、現在に至るまで世界各地でワークショップ、マスタークラスを行い、後輩の育成に熱心に取り組んでいる。

ということで映画を撮ってくれないことは悲しいが、後進の指導に励んでいるという現況が知ることができ嬉しく思う。

引退を発表しても何回も撤回する人は少なくないからなんとしてもまだまだ新作を撮って欲しいものだ。

3. 至言を味わう

普通の映画監督が映画を撮る姿勢と明らかに違う。
日本では、相米監督が似た様なことを発言していたけれど、ここまで徹底してはいなかっただろう。

7時間強の映画でたった3シーンだけが与えられたセリフ!
しかし、これを単なる役者のアドリブと観てはタル・ベーラ監督の罠に嵌る。

 タル・ベーラ監督作品は非情なまでに役者にキツいものだろう。
役者は他の映画の様に与えられた役を渡された台詞で演じることを許されない。

生身を剥き出しにされ、腹の底まで見透かされるカメラが接写ともいうほどのアップに寄ったり、シーンが終ったと思える場面でもなかなかカットがかからない。
カメラで自分自身が吸い取られてしまう。
昔の人が言ったような思いをしながら、静止して写真を撮られるわけではなく、カメラの前にして「時間を生きなくてはならない」のだ。

極度の緊張と中身を抉られる様な映画だ。
サタンタンゴを10人ほどで踊る超長回しはいつまで続くのかと呆然とするほどの時間で追い込む。

これがタル・ベーラの長回しだ!

4. それから


『ニーチェの馬』が、呼吸をするのも憚られるほどの厳格さで作られていたことからすれば、この7時間18分=438分は12章に分かれ2回のインターミッションを挟む構成でタンゴを踊るし、冗談も皮肉も飛び交い、所謂ストーリーさえ持つ。
それは素になる小説を映画化したということも関係しているだろうものの、数えてみたら157カット(観ながらカウントしたし、同ポジと思われる箇所もあり正確さは欠くことをお断りしておく)、単純計算でも1カット平均2分40秒以上
長いカットは2-30分程回していた様なところさえあり、充分タル・ベーラ監督作品そのものだ。

 一徹の思いを持ち続け、排除され、孤立しても思いを達成することができた人だけが偉人となる。

映画の1/3以上が歩くシーンではないかと思うくらいに歩く。しかも殆どが吹き付ける雨の中、ゴミや髪を舞い上がらせる風に煽られながら。

傘がない、テレビもラジオも電話もない。終盤に一度だけ車が登場。それ以外は歩くかリヤカーを引く。

あるのは酒、煙草、セックス。金の話。

只管に執拗なまでの閉塞感は監督のもの。

例えば、ラストシーンで手前の戸棚らしきところから4枚の長い板を取り出し目の前の窓に打付けるシーンは、通常のドラマかハリウッド映画なら戸棚にかがみ1枚取り出したらカットを割って4枚取ったことを見せ、窓に1枚打付け始めたら、次のカットは4枚目を打ち終わったことを示す様に編集するだろう。 
しかしタル・ベーラの映画はそれを最初の1枚を取り出すところから2枚目、3枚目、4枚目を取り出し、それを抱え、一旦机の上におき、一枚目を手に窓を塞ぐべく釘を打ち始め、2枚目、3枚目、4枚目を窓に打付け、光が遮断され画面自体が真っ暗になる最後までをリアルタイムで撮り続ける。
 役者はカメラの前で、最初から最後までこの作業を実生活における作業同様に実行しなくてはならない、しかしそれは個人としてではなくこの映画中の役柄としての実行なのだ。
これぞ映画である。
私はスクリーンのこちらで時々痛くなる尻の位置を変えながらも、7時間18分、画面の中にいた
役者たちがいる同じ場所に。
わたしはタル・ベーラや役者たちと一緒に、この地名もわからない北欧の場所を体験した。
これが映画だ。

『ニーチェの馬』以外の映画DVDがいまだに廃盤状態な日本のメーカーさん、頑張ってブルーレイ版を出しましょう。

Tarr Béla(タル・ベーラ)
1955/7/12- 現在64歳
映画監督、脚本家、プロデューサー

(波尾哲)