便利とか快適、画一的な豊かさばかり追い求めてはいけない
日本は近頃、元気がないんじゃないか。
これはとくに若い人たちの姿を見て、実感するところです。株価や物価指数、賃上げのベースアップといった数値とは関係なく、人の気持ちが縮み込んでいるように思える。
これを打破するにはどうするか。やはり、ものごとを自分の頭でしっかり考えていかないといけません。何よりもまず、日本人は考える力を鍛えなければならない。
1975年につくった「住吉の長屋」。中庭があるからトイレへ行くにも雨の日なら傘を差さなければいけないし、冷暖房機器を設置していないので風の入る夏はともかく、冬は寒い。そういったことで何かと悪名高い建築です。
不便だとか寒いというのは事実です。けれど、春から秋までは快適です。風や日差し、自然を身近に感じられて、「ここに住んでいてよかった」という気持ちになれます。
そういう家を一緒につくろうというクライアントが、当時からちゃんといたんです。自分はどう生きようかと、流されず真剣に考える人はいつの時代にもいるものです。
厳しくも楽しく生きたい、何かそれ以上の価値があるのなら不便さも甘受する。みずから考えてそういう生き方を選び取る姿勢は、今後ますます重要になっていきます。
(2018/2/23『GOETHE』Text= 山内宏泰)より
インターネット越しに広く地球規模で皆が、情報が繋がっているかのようで、心は小さく縮こまっているのかもしれない。
ジェラシー、憎悪を増幅させる装置としての機能が優位になっている。
新たなツールが産まれてもそれに人間の心が負けるなら、所詮は人間がそれだけの器ということになってしまう。
安藤忠雄の眼にはそう映るようだ。
安藤忠雄、工業高校卒業後、プロのボクサーに。
独学で建築設計を学び、建築士試験に一発合格。
御大、大御所が支配する建築設計業界の中で常に独自の発想でコンペに出す作品が話題を呼んできた。
何十年も前、ラジオで話す言葉を聞いた瞬間からこの人のファンになった。
この人の設計した建築物を見ないうちから。
この人の設計した建築物を見た。
圧倒された。言葉以上にこの人の発想そのものが具現化されていた。他の誰の建築物にも似ていなかった。
この人からは常に「自分で考える」ということを突き付けられる。
技術や慣習は置いてけぼりにしているかの如く、発想の偉大さが飛び抜けて存在する。
でもきっと安藤忠雄本人には偉大じゃなくて「普通の」ことなんだろう。それこそが偉大だということ。
安藤忠雄の頭の中からの発想を基に建築物が誕生する。誕生し存在し続ける。
「考える」ことは誰もが出来るし、誰もがやらなくてはならないことだ。
しかし自戒を込め言うが「自分の頭で『考える』」とは、
「何を」「どう」「考えるか」ということだ。
悩み、問題が存在し、それを頭の中でぐるぐると弄び、時間だけが経つ。結局、「取り敢えず」という言葉を枕詞にして、ありがちな根本的解決に至らない対処療法だけを選択してしまうことが多いのではないか。
それをしていると、また同様の事態が生じ、また「取り敢えず」対処療法を繰り返す。
これを「考える」とは言わない。「やり過ごす」だけだ。
「何も人生をそんな難しく考えなくてもいいじゃん」
「そうそう大英断は出来ないって」
「どうせ死ぬんだから楽に生きた方がいいって」
「皆んなと同じようにやれば自分の頭でいちいち考えなくったっていいんだし」
そう反論したい?
本当にそうだろうか?
そう思われる方には安藤忠雄の言葉は届かないだろう。
安藤忠雄
1941/9/13- 現在77歳
一級建築士、東京大学特別栄誉教授、大阪府・大阪市特別顧問、21世紀臨調特別顧問
(記*波尾哲)